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文明の道

都心にひっそり<将門塚>〜平将門 最後の合戦〜

今回は将門塚について書きたいと思います。

 死して侮辱的な扱いを受け怨霊となり恐れられた平将門

その、将門の首級を祀ったと云われる将門塚なのですが、

盛土の痕跡や石棺などの発見から平将門の墳墓では?との噂話もあります。

 盗掘の痕跡があって確証できないらしいです

 

霧雨の日曜日の午後

1000年以上の前の時代を想像しながら東京駅へと向かいます。

 

高層ビルの谷間に佇む小さな石碑

凛とした空気が漂う別世界

<将門塚>と書かれた石碑が現世との境界線のようです。

 

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石碑の周りには多数の蛙の置物がありますね。

将門の首級が帰ったと云う

<蛙>と<帰る>の語呂合わせだそうですよ

今でも

行方不明者の関係者や社会的地位の降格に遭われた方などが祈願され

その願いが成就すると、蛙の置物を奉納されるそうです。

大きな蛙の置物は、1986年に東南アジアでおきた日本人誘拐事件の関係者の方々が

ここに祈願され、その後、

無事解放された暁にこの大きな蛙の置物を奉納されたそうです

 

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 首塚は石碑の後ろにある石灯の辺り(ガラスの囲い)にあったとされています。

  伝説では、

   平安京にて梟首となったその3日後<今 ひとたび 一戦を>と言い放ち

    自力で東国へ飛んでいった。

  そして、神田明神境内<武蔵国豊嶋郡芝崎村(東京都千代田区大手町)>に落ちた

   村民は恐れおののき塚を作り祀ったとあります。

 真偽の方は不明ですが、

  書簡には平安京から持ち去られた首級は神田明神の近くに葬られ

  平氏武将の尊敬を受けた。とあります

 

鎌倉時代末期、平将門は<命>の名を賜り除災厄除の神として奉祀されています。

平安期の信仰心である御霊信仰<怨霊を御霊として鎮め神として祀る>ですね

当時の人々の恐怖心の強さが分かります

将門記<ショウモン キ>に平将門 最後の戦いの様子が記されています

<官兵は、常よりも強く、私兵は、常よりも弱かった。

   さすがの新皇も馬の口を後ろに向け、楯を前に攻防する。

 昨日の雄は、今日の雌!

   その為、常陸国の兵は、あざけり笑って宿営にとどまった。

 下総国の兵は怒り恥じながらすぐそこを去っていった。>

天慶3年2月14日未申の刻(940年3月25日午後3時) 

下総の国 川口村(今の千葉県旭市辺り?)でおきた川口村の戦いの様子です。

官兵は、藤原秀郷、平 貞盛ら率いる連合軍 対する 私兵は、平将門 率いる枢軸軍です。

将門軍は屈辱で唇を噛んでいたでしょう。
官兵は将門の首級を平安京へ持ち帰ります。

平安京 東の市 都大路<現 京都府下京区綾小路>にて梟首にされました

武士にとっての侮辱な行為です

平将門はもとより将門軍は、屈辱で身が震えたかもしれません。

将門記平貞盛と源 扶 の妻を捕らえた時に将門が謳った句が綴ってあります。

  他所にても風の便りに 吾そ問う

       枝離れたる 花の宿りを

~立場は違っても風の便りにでも聞きたい

  枝を離れてしまった花はどうなるのかと~

  枝離れたる 花の宿りを

 坂東平氏一門が敵味方に分かれて私闘を繰り返している状況を謳っています

  将門の人間性がにじみ出ていますね

この1年後に平将門平貞盛らの連合軍によって討死します。

忘恩の徒!というのか?何とも言えない気持ちになります。

 

西の空の雲間から青空が見えます。

38歳で人生の幕降ろした平将門

今はどんな面持ちで西の空を見つめているのでしょうか?

 

 将門記と云う平将門の乱の顛末を描いた軍事物語を読んで

この地を訪れると

当時の様子が見え隠れして面白いですよ

平将門に会いたくなったら、訪れたい場所のひとつです。(笑)