Hello (^_^) World

文明の道

国道246号線

  こんにちは

 気まぐれ紫音です。

 久しぶりに更新です

  というもの

 2年ほど前から飲食店でバイトを始めました

   本業とバイトの生活で忙しい毎日をおくっていました

そんな中、仕事で愛知県一宮市へ行くことになりました。

  (次の日はバイトなのに・・・)

  (しかも一般道で・・・(*´Д`))

自分の運の悪さに醜態をつきながら

 国道246号線を愛知県へと車を走らせます。

 厚木市伊勢原市秦野市と過ぎて静岡県小山市へ入ります

ここで一休み朝の富士山を堪能します

          いつ見てもキレイ!!ですねぇ


素晴らしい景観を見せてくれる富士山です

 でもこの富士山、過去に数回噴火をしてるんだ!なんて

  たわいもないことを考えてしまいました

当時はこの辺りはどれほどの被害がでたのでしょうか?

 なんて考えてしまいました

気になったら調べる性格なので

 早速、文献調査開始です

まずは富士山の噴火の時に甚大な被害があったと推測されるこの道路です

 調べてみるとこの道路

江戸時代に整備された矢倉沢往還が原型だということが分かりました

 つまりは東海道脇往還として整備された道路なんですよね

駿河国(現静岡県)、相模国(現神奈川県)からの産物を江戸に

  運んでいた街道だったようです

さらに、この街道、東海道と深く関わっているようです

 律令時代の頃とありますから奈良時代から平安時代後期です

当時は畿内から東国への道筋は足柄峠を超える足柄道がありました

<畿内・・・朝廷のあった周辺の総称(五畿内)

山城(京都府) 大和(奈良県) 河内(大阪府) 和泉(大阪府) 摂津(大阪府兵庫県の一部)>

<東国・・・畿内から見て東方にある諸国

 相模の足柄峠の東、碓氷峠の東南にあたる坂東辺り>

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーこの足柄道が現在の国道246号線の近いところを通っていたようなんです

その証として都筑郡郡衙である長者原遺跡は国道246号線の至近にあります

(*郡衙<グンガ> 律令制度の郡司が政務を執った役所です)

それから

時を経て

西暦800年(延歴19年)3月14日~4月18日に富士山の噴火が起きます

そして2年後の西暦802年(延歴21年)1月8日に再度、富士山の噴火がおきます

この噴火による火山灰の堆積によって足柄道は埋没してしまいました。

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        余談ですが

    早良親王が祟道天皇として追称されたもの西暦800年(延歴19年)です

     当時の天皇平城京最後の天皇である桓武天皇です

    早良親王についてはいろんな諸説があります

            当時の庶民は恐れたと思います

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<私は鹿児島県の桜島の噴火によって埋没した鳥居を観に行きましたが

火山灰の堆積に圧巻されました。

標高1100メートル級の火山でさえこの迫力です>

標高3000メートル級の火山の噴火はどんなものだったのか????

想像つかないですね

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この噴火による火山灰で堆積した足柄道は使用が出来なくなり

 代わりに箱根峠超えの道が切り開かれたとあります。

この箱根峠超えの街道が現在の東海道です

 その後は足柄道の復旧工事が行われましたが

 当時のような活気を取り戻す事は出来なかったようです。

江戸時代に入って東海道が整備されこの足柄道と沿う様に矢倉沢往還が整備され

 東海道脇往還として利用されるようになったということです

この矢倉沢往還が現在の国道246号線の原型となったようです

今では静岡県へ至る国道1号線よりも道幅広く一般的に使われている道路なのですが

歴史を辿ってみると面白いことがわかってきますね

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そろそろ裾野市を通過します

  沼津市まであとわずか

ここで国道1号線とつなぎます。

!!!三島市静岡市への標識が見えてきました!!!

 国道1号線静岡市方面へハンドルを切ります

 今度は海沿いを走る国道1号線の景観をたのしみます

ここで私のお気に入りの場所を紹介します

           静岡市の三保海岸です

      ここには<羽衣の松>がある場所です。

      天女が羽衣をかけたと伝承されている松がある場所です。

      この日は生憎と時間がなくて砂浜のみを撮りましたwww

 

          湖西市の<道の駅 潮見坂>

      この道の駅から白須賀海岸に行けるのが魅力的です

   広い砂浜と目前に広がる太平洋 そこから見る朝日は壮大で私の好きな景観です

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豊橋市まであと少し!!!

  一時の休憩を挟んで出発します。

ここからは市街地に入ります。

豊橋市もいろいろ調べれば面白い事がわかります。

それはまたの機会に書いてみたいと思います。

 

いつも通っている道、場所

 少し目をそらしてみると

 面白い発見があります

私はこれからも時間の許す限り文明のルーツを探って行きたいと思っています。

 

 

 

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都心にひっそり<将門塚>〜平将門 最後の合戦〜

今回は将門塚について書きたいと思います。

 死して侮辱的な扱いを受け怨霊となり恐れられた平将門

その、将門の首級を祀ったと云われる将門塚なのですが、

盛土の痕跡や石棺などの発見から平将門の墳墓では?との噂話もあります。

 盗掘の痕跡があって確証できないらしいです

 

霧雨の日曜日の午後

1000年以上の前の時代を想像しながら東京駅へと向かいます。

 

高層ビルの谷間に佇む小さな石碑

凛とした空気が漂う別世界

<将門塚>と書かれた石碑が現世との境界線のようです。

 

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石碑の周りには多数の蛙の置物がありますね。

将門の首級が帰ったと云う

<蛙>と<帰る>の語呂合わせだそうですよ

今でも

行方不明者の関係者や社会的地位の降格に遭われた方などが祈願され

その願いが成就すると、蛙の置物を奉納されるそうです。

大きな蛙の置物は、1986年に東南アジアでおきた日本人誘拐事件の関係者の方々が

ここに祈願され、その後、

無事解放された暁にこの大きな蛙の置物を奉納されたそうです

 

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 首塚は石碑の後ろにある石灯の辺り(ガラスの囲い)にあったとされています。

  伝説では、

   平安京にて梟首となったその3日後<今 ひとたび 一戦を>と言い放ち

    自力で東国へ飛んでいった。

  そして、神田明神境内<武蔵国豊嶋郡芝崎村(東京都千代田区大手町)>に落ちた

   村民は恐れおののき塚を作り祀ったとあります。

 真偽の方は不明ですが、

  書簡には平安京から持ち去られた首級は神田明神の近くに葬られ

  平氏武将の尊敬を受けた。とあります

 

鎌倉時代末期、平将門は<命>の名を賜り除災厄除の神として奉祀されています。

平安期の信仰心である御霊信仰<怨霊を御霊として鎮め神として祀る>ですね

当時の人々の恐怖心の強さが分かります

将門記<ショウモン キ>に平将門 最後の戦いの様子が記されています

<官兵は、常よりも強く、私兵は、常よりも弱かった。

   さすがの新皇も馬の口を後ろに向け、楯を前に攻防する。

 昨日の雄は、今日の雌!

   その為、常陸国の兵は、あざけり笑って宿営にとどまった。

 下総国の兵は怒り恥じながらすぐそこを去っていった。>

天慶3年2月14日未申の刻(940年3月25日午後3時) 

下総の国 川口村(今の千葉県旭市辺り?)でおきた川口村の戦いの様子です。

官兵は、藤原秀郷、平 貞盛ら率いる連合軍 対する 私兵は、平将門 率いる枢軸軍です。

将門軍は屈辱で唇を噛んでいたでしょう。
官兵は将門の首級を平安京へ持ち帰ります。

平安京 東の市 都大路<現 京都府下京区綾小路>にて梟首にされました

武士にとっての侮辱な行為です

平将門はもとより将門軍は、屈辱で身が震えたかもしれません。

将門記平貞盛と源 扶 の妻を捕らえた時に将門が謳った句が綴ってあります。

  他所にても風の便りに 吾そ問う

       枝離れたる 花の宿りを

~立場は違っても風の便りにでも聞きたい

  枝を離れてしまった花はどうなるのかと~

  枝離れたる 花の宿りを

 坂東平氏一門が敵味方に分かれて私闘を繰り返している状況を謳っています

  将門の人間性がにじみ出ていますね

この1年後に平将門平貞盛らの連合軍によって討死します。

忘恩の徒!というのか?何とも言えない気持ちになります。

 

西の空の雲間から青空が見えます。

38歳で人生の幕降ろした平将門

今はどんな面持ちで西の空を見つめているのでしょうか?

 

 将門記と云う平将門の乱の顛末を描いた軍事物語を読んで

この地を訪れると

当時の様子が見え隠れして面白いですよ

平将門に会いたくなったら、訪れたい場所のひとつです。(笑)

 

 

 

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上越市

仕事で上越市に行くことに・・・

先日の大雪で現地では、大変なのに と足取り重く 午前0:00出発しました。

午前4時、上信越道、長野ICを通過 ヘッドライトに雪化粧が映し出されます。

早朝、とあってか、行き交う車もありません。

信濃町を過ぎる頃には、雪景色に様変わりしています

雪化粧から雪景色に変わってゆく景色に感銘をうけました(笑)

そして何故か?川端康成の雪国の一説を思い浮かびます

(高速道路上のトンネルを過ぎると雪景色に様変わりしたからかも)

しばらく、走ると左手に妙高山が見えてきます。

妙高山斑尾山黒姫山戸隠山飯綱山

長野盆地から望める北信五岳のひとつに数えられ

越後富士の異名をもつ妙高山 

プライベートでも訪れたい場所です。

今回は、残念ながら、妙高山は撮れなかった

<新潟焼山国道18号線より>

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白銀の世界です。

つかの間、見入ってました。

 

目的地まであと僅か、上信越道 高田ICで降りて、国道405号線を東へ

片側1車線の広いとは云えない国道

先日の雪の名残・・・

渦高く積もった雪を見ると積雪量の多さに目を見張りました。

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現地では、除雪作業が大変だと思います。

ご自愛ください!と願うばかりです。

今回は、上越市に行った時の事を記事にしました。

仕事で行ったので、とんぼ帰りになりましたが、

新緑の香る頃に訪れたいと思い上越市を後にしました。

 

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料理の神様 <高家神社>

千葉県南房総市にある高家神社に行きました。

日本で唯一料理の祖神である磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)を主祭神とし

料理の祖神あることから、料理界、醤油味噌醸造業者からの崇拝されている神社です

閑静な住宅街にある境内に佇む藁葺の社殿は

歴史を感じさせてくれます。

記述によると、

1620年(元和6年)江戸時代初頭

現代の宮司のご先祖が境内の桜の木の下から、<木像>と<二面の御神鏡>を発見し

 社を建てて祀ったとあります。

後に、鏡面に<御食津神磐鹿六雁命> ミケツカミ イワカムツカリノミコト

 と記されていることがわかりました。

所在が明らかでなかった高家神社御神体であるとして、

京都吉田御所に証を願い御幣帛を頂いたとあります。

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高家神社

毎年5・10・11月に執り行われる宮中儀式のひとつ包丁式

手を触れず[鯉][真鯛][真魚鰹]を調理する熟練の技であり

 厳粛な式典として執り行われています

いつの日か、この式典を拝見したいと思っているのですが・・・

 時間が合わなくて難しいんですね(笑)

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料理業界から離れて、数年

 もう一度 料理業界に返りたいと思います。

美味しい物を食して時の笑顔が好き!なんですよね

また、あの笑顔に今年は会えるのかな?

 

 

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鹿児島最終日

最終日は桜島の展望台で溶岩を堪能したいと思います

桜島の溶岩展望台は

<湯平展望台> <有村展望台><鳥島展望台>の3つ

それぞれ見所にある展望台です

その中のひとつ<有村展望台>へ行きます

午前9時到着 誰もいない・・・笑

でも、展望台へは行けそうです

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展望台の歩道脇には火山灰が色濃く残っています

溶岩の合間を縫って松の木が生えてます。

 

帰り際、お土産店に立ち寄って溶岩焼きの湯呑みを買いました。

年配の人の良さそうな話好きの店主さんが

店内に飾ってある昭和噴火当時の写真を見て話をしてくれました。

モノクロに映った写真

そこには褐色に映った桜島の頂一面に白く溶岩が映し出されていました

写真でも噴火の凄まじさが伝わります。

1946年(昭和21年)戦後間もない桜島の噴火

物資欠乏の時代

当時の被災者の方は、やりきれない気持ちだったでしょうね

 

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今回の旅行は久しぶりに、桜島を見たくて鹿児島県へ行きました

  桜島錦江湾 後世に残したい風景のひとつです

 

 

 

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鹿児島3日目

桜島錦江湾

桜島が鮮明に見えます。

薩摩半島からの桜島も素敵ですけど

今回は大隅半島からの桜島を見に行きます。

 ”花の命は短くて 苦しきことのみ 多かりき”

  桜島の麓 古里町とゆかりのある林芙美子が詠んだ詩歌です

桜島を見ていたら思い出しました。

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垂水港に着岸です 

 潮騒町と云う名の街 

 静かで潮の香りがする街並みです。
 その名の通りです

 

散策開始!!

 ここはシラス台地 浜辺に軽石が散乱しています。

桜島の火山灰の影響でしょう砂浜は灰色をしています

桜島も間近に見えます。

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江ノ島!!

高倉健主演の映画 ホタルの撮影現場近くですね

引き潮の時は、歩いて渡れます

静かで長閑なところです

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桜島は静かに白い煙をたなびかせてます

 <噴煙を 知らねば海豚 群れ遊ぶ>

  鹿児島県出身の俳人の篠原鳳作が詠んだ句ですね。

    今の私は共感できますwww

 

桜島は富士山のように綺麗ではありません

  また立山のような厳しさもありません

無骨で素朴な山です

でも、なんか威厳がありませんか?

   優しそうな山だと思いませんか?

 浅間山と少し似ていると思います。(笑)

 

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 大隅半島からの見る桜島が好き

桜島本来の美しさと力強さを見る事ができるから

 標高1,117mと高い山ではありませんが景観は素敵な山です。

 少し落ち込んでいた私には活力剤になりました。

 

 桜島から<きばいやんせ>と笑って見送られた大隅半島です

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鹿児島2日目

 史跡訪問

少し思考を凝らして、<上野原縄文の森>へ行ってみることにしました。

南に鹿児島湾、北に霧島連山を望む上野原台地に位置している

<上野原縄文の森>は県営公園としても地域住民に親しまれているようです。
同時に縄文時代早期前葉から弥生時代後期までの遺跡が発掘されたと云う事で

国指定史跡にも認定され

鹿児島県の考古学発掘調査の拠点と記されていました。

古い歴史を探るのが趣味でもある私

好奇心が沸き訪れる事にしました。

 

午前9:00 上野原縄文の森 到着!

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平成11年に国指定史跡に認定されている

[平成に入ってからと比較的新しい方なんだ!]と少し驚きました。


曇空の中散策開始!🔎

広大な敷地内に復元された竪穴式住居が点在しています

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竪穴住居復元集落

開放されているようなので中に入ってみますね

広いとは云えませんがしっかりとした作りしています。

雨模様の天気なのからか湿気と土の匂いで中は充満しています

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と思っていると

雨が降ってきました。「かなり強い雨(;^_^A]

復元された竪穴式住居で雨宿りします

土の匂いがより一層強く感じられますが

何故か懐かしい、落ち着く匂いです

 竪穴住居の中で雨宿りなんて・・・

縄文時代にタイムスリップしたみたいwww

 

 

雨が小降りになってきたので、散策開始

 

ここは複合遺跡なので時代と共にこの地は変遷してゆきます

つまりは現代から縄文時代までと時間を遡る事ができるんですね

当時 生きていた人達と時間を共有する事ができる!と云うことです

<個人的な想像力を持ってですけど>

「当時の人達との時間の共有」私が史跡散策をしていて好きな時間です。

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当時の人達もこの道を歩いて家族の待つ家に帰っていたのでしょうか?

 

 

 

最後に訪れたのは<祭りの広場>です

ここは弥生時代前期~後期にかけて祭祀が行われた場所とあります

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祭りの広場

稲作文化が発達していて頃

五穀豊穣を願って多種多様な催し物がこの場所で行われたのでしょう

当時の人達は

この場所で歌い、踊りながら五穀豊穣を願っていたのかもしれません

 

 

遠くに子供達のはしゃぐ声が聞こえます

霧島連山からなのでしょうか?

心地よい風が吹いてきました。

二十四節気では<立秋

七十二候では<涼風至>

暦の上では、秋

 

今から数千年前

この上野原台地にも

子供達のはしゃぐ声が響き渡り

霧島連山からの秋の訪れを告げていたのかもしれません

 

そんなことを思いながら

上野原遺跡の森を後にしました。

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